2023年6月25日説教「所 有」松本敏之牧師
出エジプト記20章15節 エフェソの信徒への手紙4章25~32節
(1)さまざまな種類の「盗み」
今日は、十戒の第八戒である「盗んではならない」という戒めを心に留めましょう。
第六戒の「殺してはならない」が互いに命を大切にすること、第七戒の「姦淫してはならない」が互いに配偶者をたいせつにすること、あるいは性をたいせつにすることであるとすれば、この「盗んではならない」という第八戒は、互いに所有物をたいせつにすることであると言ってもよいでしょう。
「盗んではならない」というのは、誰にでもよくわかる戒めであるように見えます。家庭でも、学校でも、人のものを盗むことは悪いこと、罪だという風に教えられますし、法律でもそう定められている。しかし、一体何が盗みであるかを規定するのは、なかなか難しいことであります。
泥棒とか、万引きとかはわかりやすいし、批判もしやすいものです。しかしそのような盗みというのは、罪は罪でも、小さな罪でしょう。そういう小さな盗みは裁かれるのに、もっと大きな盗みは裁かれないでいるというのが、私たちの実感ではないでしょうか。
多くの組織的な盗みが横行しています。さまざまな、特に国家レベルの大工事の談合も、しばしばニュースで取り上げられますが、「盗んではならない」という戒めと無関係ではありません。国民の税金を盗んでいるということになるでしょう。またどんなに合法的であっても、その隙間をぬって搾取するということが、今日でも多くあるのではないでしょうか。
私たち自身が自覚しないまま、その大きな構造的盗みに加担してしまっている。いや不本意ながら、そうしたシステムの中に巻き込まれていることもあるのではないでしょうか。ですから私たち自身、たとえ、実際に万引きや泥棒をしたことがなかったとしても、この戒めを犯していないとは、誰も言えないと思います。
特に今日のような社会においては、盗んではならないという戒めは、個人情報の問題、知的財産権の問題、肖像権の問題、特許の問題など多岐にわたり、しかも取り扱いはなかなか難しいということを思います。簡単に人のものを自分のものにすることができる。インターネットでも拾えてしまう。論文でも何でも、インターネットで拾ったものを継ぎ合わせば、それなりのものができあがってしまう。ここ数カ月で、急速に広がってきたChatGPTの取り扱いは、今後ますます大きな問題になってくるでしょう。人の情報を盗んだかどうかさえ判断が難しい。さまざまな情報を入力すれば、簡単に芸術的な絵も、芸術的な音楽もできてしまう。その「芸術もどき」の「作品」に、知らずして情報を提供することになってしまった、元の画家、元の音楽家の権利はどのようにして守られるのか。「盗んではならない」という戒めは、今、まさに新たな地平に差し掛かろうとしていると言っても過言ではないでしょう。どこまでが個人の財産で、どこからが共有財産であるか、線が引きにくいものです。
私にとって身近なところでは、説教にしても、いろんな人の本から学んだことで準備をしていきます。どこまでが人の本から学んだもので、どこからが自分のオリジナルであるか、線は引けません。もともと同じ聖書から説教するのですから、先達の説教や注解書を参考にするのは当たり前ですし、それを一々出典について述べていれば、皆さんは煩わしくて仕方がないでしょう。ただしそれをホームページに載せるような時には、それなりに気を使います。
「私は、毎週毎週、説教の原稿作成に苦労している」と言えば、「今流行りのChatGPTで作っちゃえばどうですか」と、言われました。私は、毎週の説教をほとんど全部、教会のホームページにアップしていますので、誰かが「これこれの聖書箇所で、松本敏之ふうの説教原稿を」と、ChatGTPに指示すれば、それなりのものができるのかもしれません。せっかくするなら、もっと偉い先生のもののほうがよいとは思いますが。私自身は、それで説教作成に困っている人の助けになるならば、それでもかまいませんが、著作権が生じるところでは、なかなかデリケートな問題ではないでしょうか。
(2)本来は「誘拐の禁止」
さて、本来の文脈に戻りましょう。「盗んではならない」という戒めは、本来、どういう意味を持っていたのでしょうか。アルブレヒト・アルトという学者によれば、「この第八戒の本来の意味は、盗み一般にではなく、人を盗んではならない、という意味であった。つまり誘拐の禁止を指していた。さらに突き詰めれば、人一般ではなく、イスラエルの自由人男子の誘拐の禁止であった」と言うことだそうです。
古代世界では、人を誘拐し奴隷として売り渡すすことが頻繁になされていたそうですが(エジプトのヨセフを思い起こします。創世記37章)、もともとはそれを禁止する戒めでありました(出エジプト記21:16参照)。もっとも「人」と言ってもかなり限られていて、「自由人、イスラエル同胞の男子の誘拐」が対象であったようであり、それ以外の人間を売り飛ばしても、この戒めを犯したこととは考えられなかったようです。
「その対象が自由人男子に限られていた」というのはいかがなものかと思いますが、この戒めが「誘拐の禁止」であったとすれば、その後の歴史に大きく関係してくるでしょう。
すぐに思い浮かぶのは、南北大陸に奴隷として連れてこられたアフリカの人々のことです。それは北アメリカだけではなく、ラテンアメリカにおいても、組織的に行われてきた大きな誘拐でありました。
また恐ろしい組織的誘拐は過去の話だけではありません。今日でも世界各地の過激派組織がある村に押し入り少年を誘拐し有無を言わせず少年兵にするということが起きています。
また8年程前にニュースになったIS(イスラミック・ステイト)によるヤジディ教徒に対する暴虐のことも忘れることはできません。ヤジディ教徒の人たちは、イラク北部に住む少数派(少数民族)ですが、わずか数日で1千人以上が虐殺され、女性や少女は誘拐されて「性奴隷」にされました。2018年の「バハールの涙」という映画にも、その状況が刻まれていますので、ぜひご覧ください。(私は「からしだね」の「世界の映画 映画の世界」でも取り上げたことがあり、ホームページで、今でもその原稿を読むことができます。)
(3)次第に広い意味に解釈
さて、十戒の理解(受容)の歴史に戻りますと、次第にこの第八戒は、(人の誘拐も含む)物質的な「盗み」全般を禁ずるものと理解されるようになっていきました。ちなみに「ハイデルベルク信仰問答」は、この戒めについて、こう語っています。
「問110 第八戒で、神は何を禁じておられますか。 答 神は権威者が罰するような盗みや略奪を禁じておられるのみならず 暴力によって、 または不正な重り、物差し、升、商品、貨幣、利息のような合法的な見せかけによって、 あるいは神に禁じられている何らかの手段によって、わたしたちが自分の隣人の財産を自らのものにしようとするあらゆる邪悪な行為また企てをも、盗みと呼ばれるのです。 さらに、あらゆる貪欲や神の賜物の不必要な浪費も禁じておられます。」
とても広い理解、そして深い解釈だと思います。神様から賜ったものを不必要に浪費することも「盗んではならない」という戒めに反することだというのです。たとえそれが合法的に見えても、「盗んではならない」という戒めに反する行為がある、むしろそちらの方が大きな問題だと言おうとしているのではないでしょうか。
(4)ナチス・ドイツ時代の「盗み」
前にも触れましたが、ディートリッヒ・ボンヘッファーは、ナチスの時代に、「教会の罪責告白」という文章を書き残しています。これは十戒に即して書かれていますが、彼は第八戒のところではこう告白しています。
「教会は、貧しい者たちが収奪され搾取され、強い者たちが富みかつ腐敗して行くことに対して、沈黙し、傍観していた。」『現代キリスト教倫理』72頁
この言葉の背景には、ナチス支配下のドイツで行われていた不正があります。ヒトラーが、次第に絶対的な権力を掌握していきますと、批判勢力をことごとくつぶし、財産も取り上げていきました。さらにユダヤ人を強制収容所送り込んで、その巨大な財産を全部ナチスが没収していきました。ボンヘッファーは、それは紛れもない、第八戒違反だと告発します。そして同時に、自分たちの教会はそれを見て見ぬ振りをしていると、罪責告白したのです。
(5)ナボトのぶどう畑
権力をもっている者が、その権力によって弱い者のものを搾取していくというのは、実は聖書の時代からありました。有名なものとしては、「ナボトのぶどう畑」の話があります(列王記上21章)。イズレエルの人ナボトは、ぶどう畑をもっていましたが、サマリアの王アハブは「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を支払ってもよい」(2節)と、持ちかけます(その申し出は、それなりに紳士的であったと思います)。しかしナボトは、「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(3節)と、その申し出を断りました。アハブは機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰るのですが、それを見ていた妻のイゼベルが話を聞いた後で、「今、イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」(7節)と言いました。このイゼベルがまた悪い人なのです。
彼女は策略を講じ、アハブの名前でこのように言いました。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ」(9~10節)。そしてその言葉の通りに、ナボトは殺され、彼のぶどう畑は王に没収されました。
それを神さまは見過ごしにされません。預言者エリヤを遣わして、こう告げさせるのです。「主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか」(19節)。
(6)土地は誰のものか
また私たちが自分のものとして主張しているものも、本来、一体誰のものであるかということも、謙虚に考えてみなければならないでしょう。聖書的に言うならば、すべては神様から受けたものです。それを自分のものとして主張する時に、すでにある種の傲慢、倒錯があると思います。
特に、土地については、デリケートです。私は長くブラジルにおりましたが、いつかの統計では、ブラジルでは1%以下の人が50%以上の土地を所有し、50%以上の人々が1%以下の土地しか所有していないと聞いたことがあります。数字にはある程度の誤差があるかもしれませんが、決して誇張ではないと思います。そうした状況では、それがどんなに合法的であったとしても、本来、それを持つべき人の土地を奪っていると言えないでしょうか。
ブラジルとはじめ、ラテンアメリカのそのような圧倒的な貧富の差の中から、「神様は貧しい人を優先される」ということを主張する解放の神学が生まれてきました。
また先住民の人々は、もともと土地を人間が所有することなんてできないのだという理解の中で生きていました。土地は私たちの母であり、神様のものと考えています。そこへある日、白人が入り込んできて、それを奪ったり、極端に安い値段で「合法的に」買い取ったりした後、切り売りし始めた。もともと自分たちのものだと、主張しなかったから、それが全部白人のものになってしまったのです。今日になってそれが一体誰のものであるかという裁判が起きたりしています。
ブラジル政府は、確か1989年に、「そこにもともと住んでいる先住民は、土地の所有者ではないが、その用益権がある」と初めて認めたのですが、そのことによって、また登記上の所有者と、用益権のある先住民の間の争いを大きくさせています。
そしてそれとは別に、「何年間か所有者が放置していた土地に作物を植えて、育てると、その土地はその人のものになる」というような法律もあるのですが、それを組織的に実行する「土地なし農民運動」というのも展開されています。
(7)グローバル時代の「盗み」
強い者が弱い者の持っているものまで奪っていくということは、今日においてさまざまな形で起こっています。いや今日ほど深刻な時代はかつてなかったでしょう。今日は、地球全体が一つのシステムに組み込まれた「グローバリゼーション」の時代です。そこでは、地球規模において、巨大な金額の「盗み」が起こっています。「グローバリゼーション」というのは、地球全体が一つの家であるという風に、一見「神の国」を指し示しているように見えますが、そこではむしろ、神様の御心に反することが行われています。ほんの一握りの人間が、大きな権利を持ち、その人たちに都合のいいような世界ができていく。あとの人は、持てるものまで奪われ、その人たちに仕える従属的な地位を強いられる構造です。極端な言い方をすれば、人間が二種類に分けられる。そういうことは確かに昔からありましたが、せいぜい小規模な地域単位、国単位のことでした。しかし今やその構造が地球全体に広がっているのです。
今、地球上に80億の人間がいますが、いろんなことを積極的にかかわれる立場にあるのはせいぜい10億人だろうと言われます。あとの70億人の人は、その10億人の人に従っていくしかない。数字はあくまでイメージでしかありませんが、そういう世界というのは、「盗んではならない」という戒めと無関係ではないだろうと思うのです。
私たちは、そうしたところでこそ、この第八戒を、心を無にして聞かなければならない。「私たちが行っていることは、神様の前で正しいことであろうか」と、尋ねていかなければならないと思います。
(8)新しい生き方
新約聖書エフェソの信徒への手紙の著者は、こう勧めています。
「盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。」(エフェソ4:28)
ここで著者が想定していた「盗み」とは、小さなレベルの盗みであるかもしれませんが、私たちは、今日この言葉を、もっと大きな文脈で聞かなければならないでしょう。そこには誰かを陥れていくような合法的な盗みもないだろうかとかんがえてみなければならないでしょう。
お互いに所有物をたいせつにしあい、そして神様の所有物はみんなで共有し、その賜物を享受しながら、共に生きていくものとなりたいと思います。